井泉の由来
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井泉の由来
昭和五年(1930年)、上野の地に根をおろし、
初代石坂一雄の画号より“井泉(セイセン)”と名付けましたがいつの間にか「イセン」の名で皆様から呼ばれる様になりました。初代考案の「お箸できれるやわらかいとんかつ」の通り、当時の味と暖簾を現代に伝えております。
暖簾分け及び、当店から出たものにはこの「お箸できれるやわらかいとんかつ」のキャッチフレーズの使用を認めております。
「お箸=日本人」
洋食でありながらやっぱり「とんかつ」は和食なのだ。との思いを込めてのネーミングではなかったのかと、今は亡き初代夫婦の思いを「今」そして「明日」へと繋いでいきたいと思っております。
三代目店主 敬白
暖簾分け
初代が築きました土台を元に、二代目が昭和30年代にデパートへ出店、40年代に入り「暖簾分け」制度を始めました。
長年、当店で修行した者は「暖簾分け」として「○○(地名)井泉」の名前で営業 致しております。また、当店から独立した者の多くは「○泉」という屋号や店名を 使用しております。
本店からの「暖簾分け」の店にはB5版の大きさの板に初代の書体(井泉)と二代目考案の豚さんマーク に加え、漢文で店名の使用を許可する旨が書かれている「許可版」が置いてあります。この許可板がない店は「暖簾分け」ではございません。なお、直営店は「井泉本店」と記してございます。
暖簾分け及び、当店から出たものにはこの「お箸できれるやわらかいとんかつ」のキャッチフレーズの使用を認めております。
「とんかつ一代」
創業当時は“お座敷洋食の店”として愛されておりました。下谷花柳界の面影を残す店の造りに、川島雄三監督が目を留め、「とんかつ一代」の舞台となりました。ほとんどセット撮影だったのですが、映画を見ますと、主人公久作(森繁久弥)の店「とん久」の外見、カウンターや二階への階段等、驚くほど似ています。久作役の森繁久弥さんに二代目がセットで揚げ方の指導をさせて頂きました。
「喜劇 とんかつ一代」(東宝 1963年)
森繁久弥、淡島千景、梅宮辰夫、フランキー堺、加東大介、三木のり平、木暮実千代 他のそうそうたる顔ぶれが「とんかつ」を巡って繰り広げる喜劇です。
下谷花柳界と日本画壇とのかかわり
現在の場所は創業当時は下谷同朋町の名称で、井泉の前の道は黒塀に柳がなびき、人力車が行きかう「粋」な横丁でした。
下谷花柳界は「新橋」「柳橋」に次ぐ格式と規模を誇っており、昭和30年代までは井泉のお座敷で芸者衆が踊っておりました。
今も残る1階のお座敷からは中庭が見られ、そのお座敷の名前は初代女将が地唄の「雪」と清元の「お染久松」から「雪」と「お染」と名付けました。2階のお座敷では毎月、鎌倉から師匠にいらして頂き、長唄と荻江のお稽古が行われており、2月の梅の時期には1階のお座敷で「とんかつ」を食べながら、BGMには荻江の「梅」が聞こえてくるという、なんとも優雅な風景が展開されておりました。
下谷花柳界は上野という場所柄、画壇、特に日本画壇の方々との交流が深かったと言われております。
荻江節の家元五世荻江露友師(前田青邨画伯夫人)の姉は、下谷で八重さんという方でした。この辺りのご縁で、初代が日本画、女将が荻江へ造詣を深めていったのでしょう。
お商売の傍ら、日本古来の絵画や芸能に携わる事で、とんかつ屋でありながらも、どこか風流な雰囲気のお店が出来上がっていったと思われます。
かつ専用のまな板です。
右が新しい物。2年で左の様になります。
6月7月8月9月は麻の白暖簾が皆様をお迎えします。
全トン連
昭和13年(1938年)、主材料の豚肉不足に悩んだとんかつ店が、それぞれ昭和初期創業の東京「銀座梅林」「新橋光幸亭」「上野井泉」「楽天」「よし田」「登運勝」「日本橋弥次喜多」「浅草弥次喜多」等を発起人として養豚事業を目的に組合を結成した事に始まりました。
事業はその後、様々な曲折を経て頓挫しましたが、戦後間もない昭和21年(1946年)同業者の相互発展と親睦を図る事に目標を広げ、全国のとんかつ店に呼びかけて、名称も「全日本とんかつ連盟」と改め、現在に至っています。